関月尼

島野浦の福聚寺にある「関月尼居住の寺」の碑

大塩平八郎の娘として生まれる

関月尼( かんげつに) は文政6年(1823)、大坂(大阪)で生を受けた。本名は小山せき。父親は飢餓に苦しむ人々を救おうと、天保8年(1837)に乱を起こした大坂町奉行所与力・大塩平八郎といわれる。母親は5歳のときになくなり、父親も乱のときに死去。

若くして両親を失ったせきは、出家して関月尼と名乗った。京都で修行中に尾張出身の僧・恵等(えとう)と恋仲になり、二人して諸国の旅に出かけた。恵等34歳、関月尼18歳ごろ。

26歳ごろ島野浦に移り住む

大坂から中国地方、長崎などを経て、島野浦にやってきた。落ち着いた先が島野浦の福寿庵(現在の福聚寺)。恵等は寺を寺子屋として開放する一方、関月尼は島の女性たちに和歌、裁縫、長唄、琴、三味線などの芸事を教えた。関月尼26歳ごろ。

内藤充眞院

内藤充眞院

内藤充眞院(延岡市内藤記念館所蔵)

63歳のとき、初めて延岡への旅

 内藤充眞院(じゅうしんいん)繁子は寛政12年(1800)、彦根藩主・井伊直中の第9子(4女)として生まれた。名は充(みつ)。弟に桜田門外の変(1860)で暗殺された井伊直弼、内藤延岡藩の7代藩主・政義公がいる。

 文化12年(1815)、6代内藤政順(まさより)公の正室に。ところが、天保5年(1834)、政順公が37歳の若さで逝去、充姫は髪をおろして充眞院と称する。

 初めて延岡を訪れたのは文久3年(1863)、実に63歳のとき。それまでずっと江戸住まいだったから、遠く離れた延岡までの長旅は、精神的にも肉体的にも不安だったことだろう。

 江戸から延岡までの行旅の様子を綴ったのが「五十三次ねむりの合の手」、「三下りうかぬ不調子」という紀行文。筆まめというか、まるで日記のように、見聞したことを細かく書いている。

 延岡から江戸に上るときも「海陸返り咲ことはの手拍子」「午ノとし十二月より東京行記」を書き綴った。都合、江戸と延岡を2往復している。

伊能忠敬

伊能忠敬記念切手

伊能忠敬生誕250年を記念して発行された切手


文化7年4月、島野浦を測量

 大日本沿海與地全図(伊能図=日本地図)を作った伊能忠敬(いのう・ただたか)ら測量隊は、「御用測量方」の旗を立て、文化6年(1809)年から翌7年にかけ、東九州の測量をしている。

 文化7年4月3日、北浦の宮野浦から出港して島野浦に上陸。地下(じげ)から白浜一帯を測量している。ここは現在の島野浦の中心地で、延岡市役所島浦支所や島浦町漁協などがある場所。同日はいったん北浦の古江に戻り、大庄屋の太田尾源太兵衛宅に宿泊。

 4日は古江、市振、宮野浦、さらに北浦湾口に浮かぶ高島を一周して、豊後国蒲江との境の直海(のうみ)まで測量して、古江泊。

 5日午前中、阿蘇、熊野江、須美江を測量。再び熊野江に戻り、午後、島野浦に再上陸して測量。本陣は庄屋の角次宅。脇宿は百姓十五郎宅。

 6日午前6時ごろ島野浦を出発。須美江や浦尻(浦城)、安井海岸を測量し、その日の午後2時ごろには、延岡城下南町に着いている。

 幸運なことに、この間は3日夜に雨が降っただけで、昼間はいずれも晴天に恵まれ、測量は順調に行われた。